06. 消える精包
ニホンザリガニは「成長・繁殖」のテンポが大変スローです。繁殖は年1回、性成熟には5年ほどかかると言われています。1回の抱卵数は30~100個程度、アメリカザリガニの数分の一、海産の近縁種に比べると数十分の一です。しかし、これらのことを「能力が劣っている」と捉えるのは少々誤解です。
ニホンザリガニは湧水や沢の源流部が主な生息地です。魚が住めないようなわずかな水量のところで、大型の肉食動物を避けて岩の下に巣穴を掘ります。このような環境ではミミズやヨコエビ、カゲロウやカワゲラなどの渓流性の昆虫、場所によってはエゾアカガエルやエゾサンショウウオの幼生が見られる程度で、硬い殻に大きなハサミを持ったニホンザリガニは断トツの王者です。古い時代からこのような環境に君臨してきたニホンザリガニにとっては、小さなサイズの子を大量に孵すことは無駄が多く、大きなサイズの子を小数孵す方が有利です。粒が大きく抱卵数が少ないことは「適応進化」の結果であり、同様に、成長がゆっくりで長命なことなども、低水温で安定した環境に適応した結果と言えます。
ニホンザリガニの♂♀が出会う恋の季節は秋から冬にかけてです。雪に閉ざされた沢の冷たい水の中で冬籠りに入るころまでに交接を済ませます。産卵は3月、孵化は7月。稚ザリを独立させると母ザリは脱皮をして次の繁殖に備えます。北国の夏は短いので結構立て込んだ日程です。
秋から冬にかけて交接してから3月の産卵まで4~6ヶ月もの間、♀はこの♂の精子を「保管」しています。産卵のとき、♀は仰向けになり、人が両手で水をすくう形のように、腹部と尾扇でボウルを作りそこに卵を産み出します。この時に、「保管」してきた精子を混ぜ合わせ受精させると言われています。体外受精です。
交接のとき♂は精子の詰った塊「精包」を♀の腹部「受精嚢」に付着させます。精包はケシゴムの白いカスのようにも見える小さな塊ですが、2ヶ月ほど後に♀の腹部を観察すると、付着していた精包が見つかりません。剥がれ落ちてしまったのでしょうか・・・。
交接まえ 受精嚢部分の拡大
交接3日後 受精嚢部分の拡大
交接81日後 受精嚢部分の拡大
ところが、精包が無くなっているのに、どの個体も3月には産卵し、卵は7月にかけて正常に孵化します。「精子」はこの間どこに存在していたのでしょうか。一体何が起きていたのでしょうか。
♀の腹部を撮影した画像を拡大してみると僅かな変化が見つかり
ます。精包が付着していたその場所がほんのり白っぽく変色しているのです。
照明の具合によってはこんなにクッキリ写ることもあります。付着していた精包の中の精子はここに移動していたのでしょうか。それとも何か違うことが起きていたのでしょうか。
ここが精子の「保管場所」であることを確認するためには、(A)交接前と(B)精包が消えた後のこの部分を染色し顕微鏡下で観察することが必要です。(A)(B)を比較して(B)の画像の中に貯蔵休眠中の精子を見つけることが必要です。そのためには何匹かの♀も標本にしなければなりません。
とても、そこまで実行する「意志」も「能力」も私にはありません。どなたか、このあたりの事情をご存知の方、教えていただけないでしょうか。